文化と心(下)(2000年8月号)
かつての日本には、「恥の文化」というものがありました。
武家の家系に生を受けた明治生まれの私の祖母は、就寝時、両足を縛られて育ったといいます。「家」或いは「一族」の面目を重んじ、その為に行儀作法にもうるさかったのではないかと考えられます。
その名残か、昔の親はよく「お行儀が悪い」という言葉を口にしていたように思います。お箸の持ち方からその運び、また、足で物を動かすと足を打たれ、机に腰を掛けると「お尻が腫れる」と叱られたものです。
それらのことは確かに煩わしいことではありますが、日常的に自分を律する訓練になっていたのだと思います。ちょうど犬の訓練が、飼い易くするためだけでなく、犬の自制心を養うためでもあるのと同じ様な意味合いがあったのではないでしょうか。
日本には、茶道のように形から入る文化があります。小さい頃から形を整えることで、精神面も整えてきたのだと思います。
そして、特に女の子の躾に厳しかったのは、将来「母」になり、次の世代の子供達をしっかりと育てるためだったのではないかと想像します。
今、子供の躾のことを言うと、「あまり厳しくすると、子供のストレスになる」という反論もありますが、これは、子供が親をどのように認識しているかによって決まるものかも知れません。
なぜなら、昔の親はあんなに厳しかったにも拘らず、子供がストレスでキレたりなど決してしなかったと思うからです。
以前、何かの雑誌で永六輔氏が、「子供に『うちの親は大変だなあ』と思わせれば、その子は良く育つ。しかし今の多くの親は、食事作りにも手を抜き、子供を預けて遊びに行く等『親は楽をしている』と思われている」という意味のことを述べておられました。
* * *
戦後の日本は、何かにつけて自由を重んじるアメリカに倣い、親自身が開放的になって、行儀作法もいつしか軽んじられるようになりました。
現在では、「何故、お箸がきちんと持てなくてはならないのか」という疑問を、小学校教諭の口からも聞かれます。その都度「日本の文化だからです」と答えますが、果たしてその奥にある意味合いが伝わっているかどうか定かではありません。
日本人は昔から、手先が器用で緻密な頭脳をもつとされていましたが、これも箸文化をはじめとする細かい手作業の賜物だったと思われます。しかしながら、「現在の日本に於いてはその評価が崩れ、日本人は緻密さを失いつつある」(小学館小冊子・櫻井よし子)と懸念されています。
勿論、新しい国には新しい国の良さもあります。例えば、第二次世界大戦中、アメリカの絵画展で日本人が賞を貰ったという例もありますが、日本のいわゆる「島国根性」には真似のできない芸当でしょう。
しかし、永い歴史をもち、独自の文化を築いて来た国が、歴史のない国よりも劣るはずがないのです。なぜなら、人間というのは愚かですが智慧があります。人間が永い間に失敗と反省を繰り返して培ってきたものは、それだけの価値あるものだと思います。
学習は模倣から始まりますが、歴史のない国が歴史ある国から学ぶべきなのであって、何もかも新しい国の真似をするのは不自然です。
芸術の世界に「迷ったら基本に戻れ」という言葉があります。芸術に限らず、真実は常にシンプルなところに存在しているような気がします。
食べ物も、子育ても、教育も、何が正しいのか判らない今、その袋小路にもし抜け道があるとするならば、先人の惟(おも)いに立ち返ることではないでしょうか。