ムカツク・キレルということNo.5

自然医学誌

文化と心(上)(2000年7月号)

作家の司馬遼太郎氏は、亡くなる一年ほど前から、「日本は滅びる、日本は滅びる」と常に呟いておられたそうです。それも、庭を見ていたり、食事をしていたりと、何をしている時でもその言葉が口からこぼれ、「恐らく無意識のうちに口を衝いて出ていたのでしょう」という奥様の弁(テレビ放映)でした。

氏は恐らく、現代日本の荒廃を憂え、国には期待できないことを察知し、最後に国民に対し、直接的な訓示ではなく日本人が日本人たる心を呼び起こすよう、文筆にて働き掛けたのだと思います。しかし、もはや修復不可能であることを悟った絶望感と無力感が、最晩年の呟きだったのではないでしょうか。

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日本人は元来、思慮深く信心深い民族だったと思います。日本語は、同じ意味でも状況に応じあらゆる表現を駆使し、複雑な敬語をもち、漢字もまた、同じ読みでもその意味合いを深く考えて使い分けました。

日本人は多宗教とも無宗教ともいわれますが、神(目に見えない偉大な力)を畏れる心は非常に強く、「御天道様(おてんとさま)に申し訳が無い」とか「罰が当たる」という会話は日常的であったと思われます。

そして神棚や仏壇は各家庭に必ず有り、事あるごとに手を合わせていたはずです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、あれほどの宗教画を描きながら無神論者であったと伝えられています。しかし最期には「大自然が神である」と言ったそうです(NHK教育テレビより)。ちょうど昔の日本人も、恐らくそのような、宗教を越えた信仰心を民族性としてもっていたのでしょう。

文章の神様といわれた志賀直哉は、日本語の行く末を案じ、「いっそフランス語を国語にしたらいい」と発言していたそうです。その理由は「アルファベット文化の中で最も洗練されている」とのことですが、もし本当に繊細な日本語が遣われなくなって一番困るのは、志賀自身であったろうと阿川弘之氏はその著書『志賀直哉』の中で語っています。

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平成初期の官報によりますと、文部省は日本の文化について『有形は保存機関を、無形は後継者を、言葉については時代に応じて柔軟に変えていかねばならない』といっています。

しかし、文化は日常の中にこそ残すべきで、文部省が、日本語は複雑だという理由から、漢字を統一し簡略化していったことは間違いだと思います。世界の共通語である英語を盛んにするのは構いませんが、それは日本語を疎かにして良いということでは決してありません。

子供達から日常的に考える(日本語を正しく遣う)習慣を奪っておきながら、「子供達が考えなくなった」として、重要な基礎学力を削減しようとする(2002年問題)など滑稽としか思えません。

それならば寧ろ「小学生以下の子供がいる家庭はテレビの類を置かず、必ず神棚を祀ること」という法律でもつくる方がよほど気が利いています。日本の昔話に繰り返し出てくるような「神を畏れる心」は、良心を育てることに他なりません。

「日本が滅びてなぜ悪い」という声も聞きますが、民族としての誇りをもつことと人間としての誇りをもつことは繋がっていると思います。

自分の生まれ育った土地や国を否定して、自分を肯定することはできません。

日本人が、永い歴史の中で培って来た日常の中の文化を、いとも簡単にかなぐり捨ててしまったところに、若者達の理解し難い犯罪心理を育てる元凶も存在している気がします。

だから日本が滅びてはならないのです。

昨今の若者の犯罪を「アメリカと同じになった」といいますが(筑紫哲也NEWS23より)、それを阻止したければ、生活様式は変わっても、日本人としての精神生活(日常の中の文化)を取り戻すことだと考えます。

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