学校の現代病(2000年6月号)
私が学校に対し初めて違和感を覚えたのは、三十年余り前の小学生の時です。多くのテストがあり、その集計結果によって月毎に優秀賞・準優秀賞・努力賞が与えられるシステムが一年くらい続いた頃、PTAから「何も貰えない子供が可哀想だ」とクレームがついて廃止になりました。
次に疑問をもったのが中学校で、当時の尊敬すべき男性教諭が、ある男子生徒に拳骨(いわゆる愛の鞭)を加え、PTAから「暴力を振るった」として吊し上げられました。以来、私はPTAが大嫌いです。
かつて教育職は聖職とされ、従って学校の教育方針は父兄にはなかなか踏み込み難く、またその分、恐らく教師にとっては大きな責任感と思慮深さを要したはずです。
子供といえども感性は一人前で、教師が怒っても(たとえ仕置きをされても)それが憎しみからなのか、生徒を導く為なのかは的確に嗅ぎ分けています。ただ、親に話す場合には、私の経験によると、必ず自分に都合のいいように説明し、密かに良心を痛めているのです。
教育職が聖職でないことを知り、どんどん自分の都合を主張していった一部の親と、それに対し毅然とした態度で対処できなかった学校と、両者の関係を敏感に感じ取り、高を括ってしまった子供達の、それぞれにエスカレートした結果が、苛めや無視、学級崩壊等、今の教育現場の問題に繋がっていると思います。
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現在、私の知る小学校でも、テストをしても点数は付けず、委員長・副委員長は置かず(何か決める時はジャンケンかクジビキ)、運動会の競走での賞品も廃止して、とにかく「平等」ということに神経を遣っています。
平成九年の産経新聞の一面に、ある私立小学校が採り上げられ『運動会の競走で、スタートしてからある距離までは懸命に走り、ゴールの手前になったら全員一列になって手を繋いでゴールする』という記事が載っていました。ここまで来ると、もはや子供を導く為の方針ではなく、大人の自己満足としか思えません。
平成十一年の朝日新聞では、『現在の小学校教師は通知表の評価を明瞭に判断できず、うるさい親をもつ生徒には甘くなる傾向がある』という小学校教諭の告白文が載っていました。これこそが平等の本質から逸脱しています。
平等というのは、人として尊重される権利が等しく存在するのであって、能力に応じた役割分担は、実社会には必ず存在します。
学校は自分の進むべき道を見極める場所ですから、何も評価しないのが平等なのではなく、子供達の特性を懸命に見出してやり、体育に秀でた子、図工の得意な子、読み書き或いは計算の好きな子と、それぞれに評価してやる方がむしろ平等であると思います。
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ある小学校で、昨年の夏「夏休みふれあいアンケート」というのがありました。要するに、「親子の絆を深める為に夏休みに何をしたか、或いは何があったかを記載しろと」いうものです。
しかし、親子の心の触れ合いなどというものは、極めて日常的な心の在り方であって、決してハウツーなどではありません。
このことから、恐らく教師達自身が現代の教育問題に対し、どうして良いか判らないのではないか? 更に言えば物事の本質を考えない「現代病」に陥っているのではないか、と察せられます。
勿論、総ての学校と教師がそうだとはいえませんが、流れとしては大勢を占めているように思います。誤った平等意識で染め上げられた子供達が、中学・高校と進む過程で、自分の進むべき道が無いと感じた時、その不安な心はいったいどこへ向かうのでしょうか?