ムカツク・キレルということNO.3

自然医学誌

躾の哲学(2000年5月号)

もうかなり前から、犬が飼い主を嚙むという現象が増えて話題になっています。犬は本来、人間に忠実な最後の動物といわれ、「飼い犬に手を嚙まれる」という言葉が、本来ならあり得ない物事のたとえに遣われるほど、人間と犬の間にはひとつの法則がありました。

しかし、次第に人間と同じ部屋で生活する犬が増え、きちんとした躾もされず、大切にされるあまり、群れを成す習性の犬にとってボスの見定めがつかなくなりました。

自分がボスだと勘違いしてしまった犬は、気に入らないことがあると見境なく攻撃し、主人の手に負えなくなったり、小さい子供のいる家では危険さえ伴います。

元はと言えば飼い主に問題があるものを、周囲から疎まれてしまった犬は、なんと可哀想なことでしょう。

子供の場合にも同様に、「あるべき姿」が存在するように感じます。大自然の力で外界に出てきた子供たちは、その時代に、まず自分を生み出した大自然に、どのような形であれ日常的に触れるべきだと思います。

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よく「子供は遊びの天才だ」といわれますが、全く玩具が無くても自分の指を人形に見立てたり、石ころを動物代わりにしたりと、いつ何処ででも必ず遊ぶのには驚かされます。そのことは、実は小さいうちに想像力、ひいては思考力を養うため、神様が与えて下さった力ではないかと思うほどです。

従って、幼い頃からテレビ、ビデオ、テレビゲームにマンガと、常に画像を与え、想像力を奪う物で遊ばせることは、子供の姿として不自然に思えてなりません。

そのうえバーチャルリアリティ(仮想現実)なるものまで存在し、現実をしっかり見極める前には決して与えるべきでないものまで、平気で子供対象に売られています。

さらに、溢れるほどの玩具を与えることは、限られたものに愛着をもち慈しむ心を奪います。

私はそれらのことを「与え過ぎる弊害」と呼んでいますが、少子化に伴い、運動会では一人の子供を三つのレンズが追い掛け、電車の中では席が空くや否や子供に掛けさせ大人が立つという、「子供様々」の現象も見られます。

巷には子育てのハウツー本が多くありますが、哲学の無いハウツーは方向を誤ると害になります。例えばある家で、子供が2~3歳になったら猫を飼い、小学校に上がる頃「情操教育は終わった」と言って猫を捨てたという話もあるのです。

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躾の乱れについて、核家族が増えたことが原因のようにいわれる場合がありますが、私はそうは思いません。

昔の多産の時代に、親と同居できる家族はほんの一握りで、しかも祖父母というものは、自分の子供に対する時と違って孫には甘いもの、と相場は決まっています。

むしろ昔は周りの大人たちの価値観に一貫性があり、子供は社会の財産として自分の子でなくとも叱ってくれたのが、現代は価値観の多様化で子供に対する大人達の意見がそれぞれに喰い違い、他人の子供には口出ししない代わりに自分の子にもされたくない、という風潮が強くなったこと、そして何より、親の躾に対する考えが、「自由」の名の下に安易になったことが大きな原因だと思っています。

そうした中でも、人間が大自然の中の一動物であることを思い、日本の文化(消失されつつありますが)を惟(おも)い、幼かった頃の自分を想って自然な選択をすれば、大筋での方向づけはできるような気がしています。

大自然と日本の文化にふんだんに接していた昔の親達は、理屈抜きにそれができていたのでしょうが、現代の親は考えなければならないところに不幸があります。

なぜならテレビ世代の私達に、昔の親以上の思慮深さが要求されているのですから。

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